円盤に乗る派『おはようクラブ』ワーク・イン・プログレス評(山崎健太)

 
「カンゲキのススメ」では、主に吉祥寺シアターで上演される作品に関連して、インタビュー、劇評、レポートなどさまざまなコンテンツを掲載いたします。これからシアターでどんな作品が上演されるのか?どんなアーティストが関わっているのか?作品の魅力を少しでもお伝えできれば幸いです。
 
今回取り上げるのは、1月11日(土)より吉祥寺シアターで上演が始まる円盤に乗る派『おはようクラブ』。本公演に先駆け、12月6日にワーク・イン・プログレスとして試演会とフィードバック会が開催されました。当日のレビューを演劇批評家の山崎健太さんに寄稿していただきました。(円盤に乗る派より出稿)是非観劇のご参考に、ワーク・イン・プログレスの様子と合わせてお楽しみください。
 


人間の内と外とを切り分けることは可能か。

『おはようクラブ』では「内面・内側」の演出をカゲヤマ気象台が、「表れ・外側」の演出を蜂巣ももが担当すると聞いたとき、最初に浮かんだのはそんな疑問だった。もちろん、「人間の内と外」の「内」が何を意味しているのかについては多くのひとが定義などせずとも漠然とイメージできる以上、人間の「内と外」を(ひとまず)分けて考えることは可能だ(「内」がイメージできれば「外」はそれ以外ということになる)。だが、人間の内と外とを分けて考えることと、それらについての演出を「分業」することはまた別の話である。内外のどちらかのみに作用するよう演出するなどということは果たして可能なのだろうか。「内」のありようがどうしようもなく「外」に影響してしまうのが人間ではないか。
 
カゲヤマは今作における自らの演出について「最初に私の方で演出をつけて、こういう身体を運用していこう、というふうに作った」と説明していた(以下、引用は基本的に円盤に乗る派のnoteに掲載された「『おはようクラブ』ワーク・イン・プログレス|試演会&フィードバック会」の記事に拠る)。今作の稽古は前半後半に分かれており、前半をカゲヤマが、後半を蜂巣が担当する。12月6日の試演会で上演されたバージョンは、カゲヤマによる稽古を終え、劇場に入ってからの4日間で蜂巣が(今回の試演会に向けた)演出をつけた(「今後かっこよくなっていくであろう」!)段階のものらしい。

稽古が前半後半に分けられ、前半をカゲヤマが担当していることからも推察されるように、「内面・内側」という言葉が意味するのは、『おはようクラブ』という戯曲を上演するにあたっての基本となる姿勢/態度/ありようとでもいうべきもののようだ。sons wo:名義で活動していたときから変わっていないのだというその「ありよう」をカゲヤマはこうも説明している。「自分の実際の肉体の形と、自分が意識の中で捉える自分の身体の形を(中略)もう一度一致させる、回復させる」。「取り戻したうえで、全体の状態を保持しながら動く」。「なにかの形に変身してしまう、何かになりかけてしまうということが起きつつ、でも、そうなりきってしまわないで、また元の体に戻れるようにしておくっていう意識を持つ」。ならば、「内面・内側」に対置される「表れ・外側」という言葉は、「変身」の契機となる外部の力のようなものを意味するのではないだろうか。

試演会の冒頭、4人の登場人物は舞台上手下手それぞれの手前と奥にある扉からモグラ叩きのように一人ずつ順に出てきてはモノローグを発し、そして同じ扉に引っ込んでいく。それは二度繰り返される。二度目に語られた言葉は一度目のそれと同じものだったらしい。らしい、というのは、一度目に発せられた声はあまりに小さく、客席後方に座った私にはその言葉の断片しか聴き取れなかったのだ。
 
 
もともと、カゲヤマが演出する作品において、俳優が大きな声を発することはほとんどない。私はかつてそのような俳優のあり方を「かすかな声を聴く」ための「ラジオのよう」だと書いた。今作に出演する俳優の横田僚平は試演会後のフィードバック会で「声が小さいっていうのは、そのお話は自分の中にあるということ」だと言っていた。「カゲヤマさんが言っている「テキストの言葉をミクロに見たら、言ったことのない言葉はなく言葉はすでに身体に内在している」っていうことの始まりをやる」ために、「自分しか把握できない声かもしれない」が「絶対外には届けたい」それを実現するために、まずは「小さいとこから始めるという意識がある」のだと。

だが、繰り返され、二度目に発せられた言葉は私にも聞き取れるものになっていた。興味深いのは、その変化が俳優の内面に端を発するものでも、戯曲の指定によるものでもなく、蜂巣が課した「大きな声を出す」という身も蓋もないテーマ=演出によるものだったという点だ。これまで、カゲヤマの演出作品はその多くが比較的小さな空間で上演されてきた。私は「小さな声」が「小さな空間」を要請しているのだと思っていたのだが、必ずしもそういうわけではないらしい。

もちろん、「大きな声を出す」というテーマは吉祥寺シアターというこれまでと比較して相当に「大きな」空間に対応し、観客に言葉を届けるために設けられたものだったかもしれない。しかし、それはあくまで蜂巣演出の意図、あるいは吉祥寺シアターという空間の要請であって、俳優の意志とはまた別の話だ。重要なのは、そのような外側からの条件づけは、カゲヤマ演出によって醸成された俳優の「ありよう」を損なうものではないということだ。というよりむしろ、カゲヤマが準備する俳優の「ありよう」というのは、そのようにしてやってくる外からのベクトルに柔軟に対応するための(そして「また元の体に戻れるようにしておく」ための)ものなのだろう。
 




「人間のかたちをして生きていくとき大事なのは、いつでも円盤に乗れるようにしておくことだ。」

戯曲とカゲヤマ演出によって準備される「姿勢」をソフトウェア、個々の俳優をハードウェア(しかし名前とは裏腹に可変性のあるそれ)だと考えてみる(このとき、カゲヤマは言わばインストーラーの役割を果たす)。すると蜂巣による「表れ・外側」についての演出はキーボードやマウスによる入力に喩えられるだろう(つまり、蜂巣はユーザーの位置に立つ)。発話や動作といった俳優の挙動はある一つの要素によってではなく、ハード/ソフト/入力それぞれの性質によって複合的に決定される。思えば、演出の分業ははじめから「側」の問題として提示されていた。それはつまり「皮」の問題だ。内からのベクトルと外からのベクトルが俳優の挙動(「内面」に対置された言葉が「外面」でも「表面」でもなく「表れ」であったことに注意したい)を、境界面=インターフェイスの形を決定する。それを人「間」の形と呼んでもいい。

ところで、ハード/ソフト/入力は話を整理するために導入した仮のものであって、何がどこに位置するかは場合によって異なり、多くの場合、複雑な入れ子状になっている。フィードバック会での「バラバラすぎてはいけなくて、全体を通して一つの物語が見えるということがあるのが演劇としては素直じゃないか」というカゲヤマの発言を踏まえれば上演をハードウェアと捉えることも可能であり、上演は劇場というハードにインストールされたソフトなのだという考え方はおそらくそれなりに一般的なものであり、観客も含めた公演の全体をハードと考えることもできるかもしれない(その場合、ユーザーは「社会」だということになる、だろうか?)。
 

私にとっての「内」はあなたにとっての「外」であり、しかしそれは彼女や彼からすればどちらも同じ「外」である。ならば私とあなたがいるのは同じ「側」でもあるのだろう。
何の話をしているのかと言えばもちろん今作における演出の話なのだが、それは円盤に乗る派の態度についての話でもあり、あるいは演劇の話でもあり社会の話でもあり、そして『おはようクラブ』という戯曲の話でもある。

『おはようクラブ』はバラバラの4人が仲間となり旅に出る話だ。試演会バージョンのラストに置かれたのは、4人が正面を向いたまま微妙に噛み合わない会話を交わす場面。パンツは2枚で足りるだろうかという心配にラーメンの話題が混線し、パンツを買いにいったはずの男はラーメンを食べて帰ってくる。パンツが足りなくなるのは困ったことだが、ラーメンがおいしかったのならばそれはそれではありではないか。
さて、内容と形式の一致は美しいが、それだけでは「面白くない」。蜂巣という「外」の演出家はここにどのような新しいベクトルを追加するのだろうか。


山崎健太(やまざき けんた)演劇研究者・批評家/演劇批評誌『紙背』編集長

 



【武蔵野文化事業団にて、チケット販売中!】



円盤に乗る派かっこいいバージョン『おはようクラブ』1月11日(土)~1月13日(月・祝)
公演詳細→http://www.musashino-culture.or.jp/k_theatre/eventinfo/2019/11/noruha.html

円盤に乗る派公式webサイト→ https://noruha.net/