吉祥寺ダンスLAB. vol.2『サーチ』レポート④(山本伊等)

 
「カンゲキのススメ」では、主に吉祥寺シアターで上演される作品に関連して、インタビュー、劇評、レポートなどさまざまなコンテンツを掲載いたします。これからシアターでどんな作品が上演されるのか?どんなアーティストが関わっているのか?作品の魅力を少しでもお伝えできれば幸いです。
 
今回取り上げるのは、1月25日(土)・26日(日)にいよいよ本番の迫った「吉祥寺ダンスLAB. vol.2『サーチ』」。第4回は作家の山本伊等さんに、20日の稽古場&公開リハの様子をお伝えいただきます。
 


1/20稽古場・公開リハーサル レポート

今回、私は通し稽古と公開リハーサルを見た。
客席の上手後方から舞台の下手奥へと、赤いゴム紐が頭上を走っている。舞台上には三つの「ひとをダメにするソファ」が置かれている。

額田大志のテクストは、「私」とその友人である「美玲」と「熊田」が地球の裏側、ブラジルはサンパウロへ行くまでのいくつかのエピソードが、比較的ゆるいつながりの断章形式で書かれている。そこでは「地球の裏側の人たちは、その地面を表側だと思っているに違いない」「地球ではなく、私たちが方向を決めている」と空間の恣意性が問題となる。ゆえに「私は、下へ行くのではなく、下へ「進む」」と、目的語を伴う「行く」という語から、「進む」というより身体的な語が採用されることで、われわれが日常で使っている空間のフィクション(自らの身体、あるいはわれわれがどこか基点として考える上下左右)を解体し、新たな空間の創出を目指す。

岩渕貞太と酒井直之のダンスは、そのような地点からはじまる。

稽古中、もっとも私の印象に残ったのは、同じ言葉の反復と、しかし目まぐるしく変化していく身体と言葉の関係だった。たとえば「私」が「美玲」とボウリングをしながら会話するシーンでは、ボールがピンを刎ねる擬音語がこれでもかというほど繰り返され、そのときの身体は、ボールを投げる動作という比較的語のイメージと連続性を見出しやすいものから、われわれがそれについての名前を持っていないような抽象的な身振りまで様々だ。なぜ、繰り返す必要があるのか。あるいはなぜ、ある言葉を発するときに、ある身振りが必要とされるのか。
これについて稽古場で聞いたところ(あるいは公開リハだったか)、額田は「セリフをどうにかこうにか言えるようになるまで繰り返す」と、また岩渕は、「テクストに「私」と書いてあって、それを身振りにするときに、作中の「私」として発話するのか、語り手としての「私」として発話するのか、それとも読んでいる「私」として発話するのか。そういうことを考えながら、ここはスムーズに言えるなとか、言えないなとか、考えながら作っている」と話してくれた(どちらも今私が思い出しながら書いていることなので、一語一句合っているわけではない)。もちろんそれに加えて、舞台上には「赤道」と「シューマイ」、岩渕にとっては酒井が、酒井にとっては岩渕がいるのだ。

言葉と身振り、さらに舞台美術という環境の関係性の再構築を図ろうとする際、地球の裏側へ——その当の「裏側」という語がなおも恣意的であるという状況で——地球の裏側へ往くというテクストの内容がさらに複雑さを加速させる。つまりダンサーはその都度、その言葉を「どうにかこうにか言う」ために、身振りと発話の試行錯誤に身を預けることになる。
そのような地点で、酒井は「やったわ!」「やったわ!やったわ!やったわ!やったわ!やったわ!やったわ!やったわ!やったわ!やったわ!やったわ!やったわ!やったわ!やったわ!やったわ!」と拳を畝らせ、岩渕は「赤道」をまわし、空気を揺らす、ふぉーんという気の抜ける音を鳴らす。

だがこの作品が試行錯誤のなかにつねにあることを強いるものである以上、私は私が見たものを、信用できない。本番はまったく違うものになっているかもしれないからだ。そのときはこの文章も、ありえたかもしれない身振りについての文章のひとつとして、消えてゆくだろう。

山本伊等 (やまもと かれら) 作家



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吉祥寺ダンスLAB. vol.2『サーチ』

[振付・ダンス]岩渕貞太 [テキスト・音楽]額田大志  [出演]岩渕貞太 酒井直之 他 

1月25日(土)19:00 1月26日(日) 14:00

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