台詞は入るもの?

書いた人:スピカ

 

 先週の土曜日、吉祥寺シアターの稽古場では、今秋、当館で行われるティーファクトリーの新作「生きると生きないのあいだ」リーディングプレイベントが行われました。ぜひ、本公演も観に伺いたいと嬉しい言葉も返ってきまして、本当にありがたいことです。劇団の公演情報はこちら(武蔵野文化事業団でのチケット発売日に関しては決まり次第、アップしますのでもう少しお待ちください。)
 

 さて、リーディングについて考えをめぐらしておりますと、ふと台詞というものはどうやって入るものなのだろうか、なんてことに考えが至りました。
 丸暗記でしょうか?
 暗記と言うとやはり子どものころです。親戚の子の様子を見ていると、掛け算とか、その様子がおそらくは20年以上経っても、教える側も覚える側も全く同じであることに気づいてしまい、おかしくなってきます。
 要は丸暗記には理屈などないのです。たとえば、算数のテストでは
「かごに入った5つのミカンが全部で9ケースあるから全部で45個だね」
 なんてことは誰がなんといおうと機械的にやることになっています。
 ではそんな光景の中にもやはり丸暗記って学生時代にどれくらいしたのだろうか?なんて思ったりもしましたが、そこにあるのは残念ながら私の場合、純然たる瞬間記憶の「丸覚え」がほとんどであって理屈ではありませんでした・・・。場合によりけりではありますが理屈のあとに暗記がついてくるのが本当は正式なんでしょうね。

 これは演劇に置き換えてみるとどうなのでしょう?
「台詞を覚える」というのは、やはり理屈なのか。つまり役になりきるということは暗記とは別物で、その役柄そのものになることと実は同じで、それくらいでなければ演じることなど実際は出来ないのではないのかと、つまり覚えるのではなくて入るものではないのかとわからないなりに考えてみたりしました。(本当に素人考えで申し訳ないほどですが・・・。)

 昨年、吉祥寺シアターで行われました葛河思潮社『冒した者』の公演では冒頭、田中哲司さんのモノローグからはじまりました。いったいこの方の中にどれほどの文章量が入っているのだろうかというほどの1人語り。もちろん、プロの役者に対して失礼な話ではありますが、それは覚えるという作業でなくて、台詞が入っていないと・・・役と同化できていないということになるのだろうなと思いながら観劇した記憶があります。