皆さんの高村光太郎像とは?

書いた人:スピカ

 

 「純文学」というのはどのようなものを指すのかということを時々ではありますが思うことがあります。
 純文学の定義のようなものを見つけるとするならば、時代に拠らず先駆的で芸術性を重んじる内容と言えそうですが、大衆小説と呼ばれるようなものにも、十分に作者の思想・信条が反映された娯楽性の高い作品も数多いように感じますし、作品がエンタテイメントに富んでいるからといって、現代においては既に明確に純文学や大衆文学と区分けすることが難しくなってきているような気もいたします。もちろん専門的に文学を学んでいる方にとっては、十分にそれらをカテゴライズすることは可能なのでしょうが、仮にそうしたものがあったとしても、もっと単純に主に戦前に活躍された作家と、現在、職業作家として活躍される方との間に大きな隔たりのようなものを感じとることが出来るような気がします。

 これは個人的に思うことの一つですが、戦前の作家を含めた芸術家はその人、個人の“生き方”と密接に関係しているのではないのかということが挙げられるかと存じます。もっといってしまえば、「画家」でも「詩人」でも「建築家」でも、その人が“生きる為の手段”としての労働ではなくて、ある職業がその人自身を表している、“生き方”であることが戦前の芸術家の要素には多分にあったように思うのです。

 先日発売となりました吉祥寺シアターで公演されることになる「暗愚小傳」は高村光太郎の生涯に関る内容で、私は刊行されている著作から脚本を既に読ませていただきました。これはもちろん高村光太郎という人をあまりよく知らなくても、理解できる話となっております。ですが事前に氏を私自身が身近な存在として捉えていたかどうかというとどうもそういうわけでもなく、通りいっぺんのことながら、智恵子抄における草野心平の詳細な解説を読んで、清廉潔白であったであろう人格者としての一面しか捉えていなかった気がいたしました。
 であるからこそ、脚本を読んで、自身で形成してしまった高村光太郎像とやや異なる印象に若干の違和感、戸惑いを覚えたのでした。これは何がどうというものでもないでしょうし、ただ私が不勉強なだけなのかもしれませんが・・・。

 公演を通して、高村光太郎という人はこういう人だったのかと思う方もいらっしゃるでしょうし、または全く逆に、自分の感じている高村氏はこういうものだと明確な信念をお持ちの方もいるかもしれません。しかし、そういった一個人に対する想いがある故に、一人の詩人、彫刻家としての魅力が増し、その生涯に迫ることが出来るのかもしれません。

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