スタッフブログ:2015年08月

成蹊学園でコンサートを

投稿者:ヤマネ


そろそろ、皆様のお手元に来月の発売情報のDMが届き始めているのではないかと思います。一番目につく公演は何でしょうか?そうです、成蹊学園でバッハを聴く公演であります!!


成蹊学園、ご存知でしょうか。武蔵野市吉祥寺北町にあります。そしてそこには美しい大講堂があります。この冬、その大講堂で、当事業団主催によるコンサートを実施する事が決まりましたのでそのお知らせをいたします!ウラー!!


イタリア人のチェンバロ奏者で、ライプツィヒのバッハ国際コンクールで優勝しているフランチェスコ・コルティという方をお招きし、「バッハとその時代」をテーマとしたプログラムを披露して頂く事になりました。


12月20日(日)午後2時開演 フランチェスコ・コルティ チェンバロ・リサイタル


美しい煉瓦造りの建物、まっしろな壁、高い天井などが実に気持ちの良い空間です。学校の内部という、普段はまず足を踏み入れることのない場所での公演です。ぜひお越し下さい。チケットの発売は9/4金、午前10時からです(全席自由席)。ご予約お待ちしております!!ウラー!!


内部の画像が見たい!と言う方のために、特別に、中が見られるURLを貼り付けいたします(上から目線)。ぜひチラッチラッ、とチラ見して下さい。
http://www.kotobuki-seating.co.jp/cd/app/?U=/example/training/seikeigakuen.html


場所は吉祥寺駅から徒歩15分と、少し歩くのですが、いつも武蔵野市民文化会館に三鷹駅から歩いてきて下さっている皆様ならぜったい大丈夫!(いつも遠いところを有難うございます!!!!)。


成蹊学園は創立100年を超す名門。成蹊大学出身の有名人と言えば中井貴一、片桐はいり、銀河万丈、小池真理子、桐野夏生、石田衣良、高島彩、安倍晋三などの名前が挙がります(Wikipediaから個人的によく知っている名前を抽出)。


成蹊学園が武蔵野市吉祥寺に引っ越したのは1924年のこととありますから、90年以上の時が経過しているのであります。ウララー。

  
 

終戦直後のコンサート

投稿者:Lepi
 
 
 
戦後70年のシリーズで書いてきたブログも今回で最後です。
 
70年前の昭和20年9月14日、終戦から約1ヵ月後のこの日、オーケストラのコンサートが行われたことをご存知でしょうか。演奏したのは、日本交響楽団、今のNHK交響楽団で、場所は日比谷公会堂です。現N響の戦後初の公演会で、この日の公演の記録は、N響のホームページの演奏会記録に詳細に載っています。
 
NHK交響楽団演奏会記録 www.nhkso.or.jp/library/archive/index.php
 
そして、手元にこんなチケットの半券があります。昭和20年9月15日の日本交響楽団(現N響)の公演チケットです。えっ、1日違うのでは…。実はこのとき、9月14日、15日と2日間、同じ曲目で公演が行われています。
 
惜しい!初日のチケットではないのか!などと思ってはいけません。終戦からまだ1ヵ月、戦後の混乱期に、こんなに早く公演が行われていたこと。しかも2日分のチケットが売れたということ。終戦直後のイメージからすると驚くばかりです。チケットの紙や印刷も、結構しっかりしています。
 
当時の会場の雰囲気はどうだったのか、チケットはどこで売っていて、どうやって買うのか。初日のチケットは、なぜとれなかったのか。当時の公演会のもろもろを、もっと聞いておきたかったと思うばかりです。公演を実現する方たちの大変な努力があったと思いますし、聴きにいった人たちにもいろいろなドラマがあったと思います。そして、困難なときにも、音楽を愛する人たちと音楽を渇望する人たちが大勢いたのだということを感じさせてくれる資料です。
 

昭和20年2月25日と7月25日の青年日本交響楽団

投稿者:Lepi
 
 
 
さらに前回の続きです。
 
昭和20年2月27日の現・東京フィルのチケットとあわせて、この2日前の2月25日の日比谷公会堂のチケットもありました。青年日本交響楽団という交響楽団の印が押されていますが、この券は切られていなくて、未使用の状態です。こちらはプログラムも残っていなくて、曲目等は分かりません。また、この交響楽団がどういう楽団だったのかは、服部正さんが創設し指揮者を務めていたということ以外、うまく調べられませんでした。
 
この券の裏面を見ると、「警報発令の場合は延期致候追て後日開催日は提示可致候」と書かれています。東京大空襲の直前で、毎夜のように空襲を受けていた頃のことです。この一文で、厳しい状況下での公演だったことが感じられますが、券が切られていないのは、延期されたのか、それとも、個人的に行けない事情があったのかは分かりません。
 
この後の、昭和20年7月25日の青年日本交響楽団の公演の半券も残っていて、このときは聴きに行けたようで、券が切られています。こちらも、プログラムは残っていなくて、曲目等の詳細はわかりません。昭和20年7月25日といえば終戦まであと3週間。そんなときでも、日比谷公会堂ではコンサートが行われていたのですね。そのときには3週間後に戦争が終わることは分からなかったと思いますが、どんな公演風景だったのでしょう。
 
この券を持っていたのは、数年前に亡くなった私の義父ですが、当時19歳、大学生になったばかりで、昭和20年1月に徴兵検査を受けています。いつ徴兵されるか分からない時期、どんな思いで公演を聴いていたのか、当時のクラッシックの演奏会はどんな雰囲気だったのか、聞いておけばよかったと思うことはたくさんあります。未整理のまま、いろいろなものにまざって部屋の奥から出てきた遺品を整理していて、初めてこういう資料が残っていたことが分かったので、生前には聞けなかったことが残念です。
 

第8回希望演奏会 チャイコフスキーの夕

投稿者:Lepi
 
 
 
前回の記事に多くの方の「いいね」と「シェア」をいただきありがとうございます。
 
いただいたコメントの中に、この日の曲目が気になるというものがありました。実は、チケットのほかにプログラムも残っていました。これが一緒に残っていたので、あの半券が昭和20年に開催された東京交響楽団の「第8回希望演奏会」だったとわかりました。
 
「チャイコフスキーの夕」ということで、チャイコフスキーの曲が中心です。このときは、日ソ不可侵条約の下、ソ連はまだ敵国になってなかったからでしょうか。指揮は、ヘルムート・フェルメル、ドイツ人の指揮者です。同盟国のドイツ人とはいえ、外国人の指揮による、外国の曲、抱いていた戦時中のイメージとはちょっと違います。
 
音楽公演も戦意高揚に使われていた時代です。今週の日曜日、NHKのクラシック音楽館では、戦時下において、人々を励まし、元気づけるために、音楽公演が行われていたということが放送されていました。しかしその多くは、日本人作曲の曲を日本人指揮者の指揮で行なうことを求められたとも言っていました。
 
指揮者のこと、演目のこと、演奏された交響曲第6番「悲愴」が希望演奏会というのにふさわしい演目だったのか。プログラム下段に書かれた、胡桃割人形の演目変更の理由は何だったのか。このプログラムを見ていても、いろいろな疑問が出てきますが、今は知る由もありません。ただ、この時期に、このプログラムで公演を行うには、さまざまな苦労があったと推察されます。そして、厳しい状況下でもこうして音楽活動を続けるために、いろいろな努力がされていたことを感じます。
 

戦時下のコンサート

投稿者:Lepi
 
 
 
戦後70年の今年、さまざまな形で、当時のことが語られていますが、当時の音楽公演はどうだったのでしょうか。
 
手元にこんなチケットの半券があります。昭和20年2月27日、日比谷公会堂のチケットです。
 
この日演奏したのは、東京交響楽団ですが、今の東京交響楽団ではありません。この東京交響楽団、この公演の11日後、3月10日の東京大空襲で、練習所や楽器、楽譜すべてを消失してしまいます。そして、終戦直後の9月に東京都音楽団として再興、その後変遷を経て、東京フィルハーモニー交響楽団として現在に続いていると、東京フィルのホームページに載っていました。
 
戦争が激化する中、公演が行われていたこともそうですが、この券面を見ると、HIBIYA PUBLIC HALLとか、Orchestra Stallなどの英語が使われていることに驚きます。当時、こんなにおおっぴらに英語を使って大丈夫だったのだろうかと心配になります。
 
裏面を見ると、プレイガイド事業部という文字も。当時もチケットはプレイガイドで売っていたのでしょうか。そもそもプレイガイドという言葉を使えたのでしょうか。
 
戦争による空襲が激しくなる中、当時のクラッシックの演奏会はどんな雰囲気だったのか、英語表記は問題なかったのかなどなど、この半券の持ち主の生前に、もっと聞いておけばよかったと今さらながら後悔しています。
 

好奇心とは常に仲良くしていたい

投稿者:ヤマネ


年を取るとだんだんと好奇心がなくなってきます。


昔はあんなことやこんなことにまで感動し、箸が転がっても笑い転げる・・・ことはなかったにしても、いろいろと感受性が豊かだったかな?と思う事があります。


一昨日、武蔵野市民文化会館の大ホールで東京交響楽団を指揮したクリスティーナ・ポスカさんは何にでも興味津々でした。エストニア出身。現在はベルリンを拠点に活動を展開中。写真で想像していたよりも小柄でかわいらしい感じでした。


日本では英語があまり通じない、という事は前もって知って居られたようですが、どうサバイバルすればよいか、という事をお話ししているうち、わくわくするわー、という回答。いろんなトラブルがあると思うけど、レディー・トゥ・アクセプトですわ、とのことでありました。


1978年生まれと言うことは私より一歳年下。私も負けては居られませんね。


エストニアがどこにあるかご存知ですか。私はわかりません。きっとあの辺です。(Wikipediaにあった上の画像ご参照下さい。フィンランドのほぼ真下ですね。)エストニアの人口は140万ぐらいだそうで、東京は1,400万ぐらいいるかな、と言ったらオウ、とケラケラ笑っておられました。


エストニア語はフィンランド語やハンガリー語と同じ系列に属する言語だそうです。簡単に言うと「めっちゃむずかしい」という事になります。が、日本語には「漢字」と「ひらがな」と「カタカナ」の三種類のアルファベットがある、というとケラケラケラと笑っておられました。


高速道路で前を走るトラックを見て「じゃああそこに書かれている文字は何と読むのか?」と言われて考え込んでしまいました。「勢州」と書かれていたのですが、さて何と答えればいいでしょうね?漢字は一個一個に意味があるんですが、それぞれに読み方が複数あって、ルールはなくて、ただひたすら記憶するしかないんすよね(ポスカ一瞬絶望、のち爆笑)。


今調べましたら「勢州」とは伊勢の国の別称だそうです。なんだ、そうだったのか。適当に「読み方は判らないけど、アクティブでヴィヴィッドなカントリーとかそないな意味ちゃうか?」と言ったのはまあまあ間違いでした。この場をお借りしてポスカさんにお詫び致します。